先日、仕事で「計画技術にいかせそうなアインシュタインの言葉」 を整理していました。
次のような言葉を見つけることができました。
・ 「知性とは、方法や手段に対して鋭い鑑識眼を持っているが、目的や価値に対して盲目である」
・ 「常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションのことだ」
・ 「何かを学ぶのに、自分自身で経験する以上に良い方法はない」
・ 「私は、理詰めで考えて新しいことを発見したことはない」
・ 「空想は、知識よりも重要である。知識には限界があるが、空想は世界すら包み込む」
・ 「調べられるものを、いちいち覚えておく必要などない」
・ 「普通と言われる人生を送る人間なんて、一人としていやしない。いたらぜひ、お目にかかりたいものだ」
・ 「いつだって、偉大な先人達は凡人達の熾烈な抵抗に遭ってきた」
・ 「間違いを犯したことのない人とは、何も新しいことをしていない人だ」
・ 「我々という言葉に疑問を感じる。誰も隣の人間と同じではない」
アインシュタインは数学が苦手だったということを聞いたことがありますが、本当にそうだったのかもしれませんね。伝説の科学者が、理詰めや常識・知識より空想、経験、新しさへの挑戦を説いている、これは大事なことだと感じました。
最近、教育の面でも、龍馬塾にもいらっしゃった山田良一先生などは「常識なんていうものは大人の勝手な思い込みであることが多い」と説いていらっしゃいますが、まさしくアインシュタインも同 じことを述べていたのですね。
ちなみに山田良一先生は、「効率的」という言葉もよく否定されます。主体と目的を吟味せずに用いる「効率」は、悪魔の尺度になりかねないからです。「何のための効率か、誰のための効率か」、 その主体と目的のない「効率」という言葉が、教育界でも新しい暴力となって飛び回っているのでしょう。
自然科学者たちにもっと哲学教育していただかないと、今回の原発事故ような「思い上がりを諌められる」事態が発生するのかもしれません。かつて日本で最初の原発開発者、故高木仁三郎先生が 「原子力は絶対に制御できないと確信している。だから自らの責任も自覚して、反対運動の旗手となる」とおっしゃっていましたが、 人間、わかったら素直に過ちを認め、それを修正する潔さが大事なのではないかと思います。
ちなみに、わが日本が誇る湯川秀樹博士も次のような言葉を残されています。「集団による意思決定は社会的手抜きになりやすい。真実はいつも少数派にある。」
日本人が気をつけなければならないところを指摘されているように感じます。
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タニグチ (火曜日, 24 5月 2011 23:27)
僕自身は相対性理論の何も理解できない人間ですが・・。アインシュタインの人生にはとても興味があります。僕が特に感銘を受けたエピソードを・・。
アインシュタインが単純な計算ミスを繰り返したことはほぼ事実だろうとされています。未来の妻へ宛てた手紙の中で自らも綴っています。
アインシュタインは空想の中で視覚的、直観的記号やイメージが自ずから組み合わさり全体が構成されると言っています。そして、言葉や記号を骨折って探すのは第二段階に過ぎないとも言っています。
“創造性の発揮”についての議論でよく言われることでもありますが、創造性は視覚的イメージや直観力からくるものというのは現代科学でも通説となっています。
アインシュタインの場合、この強力な直観やイメージ力を発動した空想が、強力な創造力の源だったのだと考えられます。
しかし、アインシュタインも後半生において、数学に依存するようになったために、初期の強力な創造力が落ちたのかもしれないと指摘する研究者もいます。
これはある傑出した能力が、何かの代償の代わりであることを示唆することでもあります。何かに長けている人は、どこかで欠落している部分を抱える。どちらが良いということは問題ではないと思います。どちらもあることを認めることこそ重要なことなのだと思います。
話は変わって、ことばを豊富に持つことが、自己制御力、抑制力につながるという研究データがあります。
アインシュタインは、ことばでの思考は二の次で、直観、イメージで思考することが多かった。一方で、非常なかんしゃく持ちだったとされています。
(実の妹は何度も危険な目にあったと述べているほど・・)
どこかつじつまが合うと思うのは僕だけでしょうか。。
幼い頃はだれもが「ことば」よりも視覚的なイメージで思考しています。子どもたちには豊富な言葉を身につけられるよう教育します。
もちろん大切な教育だと思いますが、その教育をすることで「どこかを犠牲にしている」可能性を僕ら大人たちは自覚しなければならないと思います。
常識を教えることが何かを犠牲にしていることを自覚する必要があると思います。
しかも、今の世の中は常識のウエイトが大きすぎて、犠牲にしている部分が大きくなりすぎているように感じます。
とても漠然としたまとまりない文章でごめんなさい。
タニグチ (火曜日, 24 5月 2011 23:36)
読み返すとものすごい分かりにくい文章でした・・反省です。
とにかく、大人の常識には危険がひそんでいることに僕も強く共感します。
それを裏付けるようにアインシュタインは下のように述べています。
「わたしはときどき自問する・・・。どうしてわたしは相対性理論を作る人物になったのだろうか。それは普通、子どものころに考える問題なのだ。しかし、わたしは知的発達が遅かったので、その結果として、時間と空間について疑い始めたのは大人になってからだった。もちろん、わたしは通常の子どもよりもこの問題を深く考えることができた。」
子どもはやがて成長します。
大人の我々がしていること、できることは本当に、真の意味で子どもたちのためになっているのか・・。
この先ずっと考えなければならないことであり、考え、悩み続けることこそ重要で、大人たち全員の責務だと考えます。
Mr.X (水曜日, 25 5月 2011 09:09)
とてもわかりやすい文章だと思います。同感です。
空想、直観、とても大切だと思います。
かの湯川秀樹博士の中間子理論も大本教聖典霊界物語の中から発想を得たと聞いたことがあります。
最先端の科学は、おそらくは宗教(で述べられている宇宙の原理)と限りなく近づくのかもしれません。
龍馬塾ホームページ冒頭の地図についても、いつか自然科学力が発展した時に、その秘密・理由が解明されるのかもしれません。
残念なのは、これまでの自然科学者のスタンスです。
学界の中で異端視されることを怖がる方が多すぎるように感じます。
たとえば、あの地図を見たら「地球には意思のようなものが働いているのかもしれない。少なくとも地球は生きた身体を持っていると言うべきではないだろうか。」くらいの勇気ある発言をしてもいいではないですか。
ところで、僕もよく「四次元」や「五次元」について空想しています。
「四次元」については、なんとなく理解できる(感覚で)つもりです。
いつでも四次元人間になれそうだと勝手な自信を持っています(笑)。
ただ、五次元に関しては全く手がかり無しです。
どなたか、五次元を感覚で理解できると思われる方、いらっしゃいましたら是非お話をお聞かせください.
スタッフY (木曜日, 26 5月 2011 18:00)
私には、少し難しいお話ですが、アインシュタインの言葉の内容が
わかるような気がします。
「息子が非行に走った」経験がなければ分からなかったかもしれないです。
今となれば、息子のおかげでいろんな出会いを受け入れることが出来て、いろんな話が聞けるようになったとさえ思えるようになりました。
世間で言う「普通の生活」をしていたら、今の私は居ないとも思っています。
タニグチ (木曜日, 26 5月 2011 19:35)
Yさんのおっしゃること、僕にとって身にしみることです。
というのも、僕自信はいわゆる「普通」の体験しかしてこなかった人間で、そこから脱却したいと考えながらも、どこかそこから脱しきれない自分もいて、とてももどかしく思っています。。
そんな人間が、複雑な環境と心境にあるこどもたちに何ができるのか・・本当におこがましいなぁ・・と考えることも正直あります。
そこで行き着いたのが、過日ここで書かせ頂いた、「プロデュースしたい」というところでした。
僕自身、様々な人と出会い、僕の薄っぺらな人となりに少しでも刺激を与えていきたいと強く思っています。
偉そうなことを言いながら、龍馬塾でもっとも恩恵にあずかっているのは僕自身だと思うわけです。
これからも様々な体験を積んで、人間修行を積んでいきたい。
龍馬塾は様々な“分厚い”方々がいらっしゃるので、僕にとってはとっても貴重な場です。
あずかった恩恵は少しずつどこかで還元していきたい。
そう考える日々です。
と、なんだか僕の個人的なつぶやきになってしました・・。
スタッフY (木曜日, 26 5月 2011 20:15)
私も、つぶやきます(^。^)
良い年して、まだまだ私が人に甘え、頼ってしまってる状態ですが
今まで人に助けてもらって今があると思ってます。
親はもちろん、周りの方に感謝の日々です。
今までの私の未熟な経験が誰かのためになるんであれば是非お手伝いさせて
いただきたいと思ってます。
もちろん、これからも人間修行を積んでいきたいと思ってます。
「くせ者」のわたしですが^_^;
これからも末永くよろしくお願い致します(#^.^#)
Mr.X (月曜日, 30 5月 2011 09:38)
素材には「クセ」があってこそおもしろいのかもしれませんよ。
だからこそ美味しい料理ができるのかもしれませんよ。