2013年
3月
25日
月
つりさげひなまつりin2013
今日は、龍馬塾が主催する
「つりさげひなまつり」
の開催日でした。
焼きそばを焼いたり
中古品も販売!
(なぜか踊る生徒たち。笑)
焼きそばも人気で、待ち時間がでたほど
購入いただいたお餅や焼きそばは、近隣の住民の方にも、好評でしたヽ(゜▽、゜)ノ
そして餅つき!!
塾に行くと、前夜からボランティアの方々が用意してくださった餅米が大量にあって、びっくり( ̄□ ̄;)
「大変じゃったんよ( ̄▽+ ̄*)キラーン」
と、涼しい顔でおっしゃってましたが(;´Д`)
さすがですよねえ(^_^)
このような素敵なボランティアのみなさんのたくさんの力によって、今日も支えられています。
ついたお持ちも、当然販売!
やっぱつきたてのお餅はうまい!!
住民の方と一緒についたお餅もほぼ完売、カレーやウインナーなども人気でした(*^ー^)ノ
提供する側と、受ける側。
今日は福島から避難してこられたご家族の方も、参加していただいたりして
いろんな方々の力と絆での、たくさんの素敵なご縁がありました。
2012年
7月
10日
火
水平目線について
勝手ながらいくつか追加提案や意見を。
●龍馬塾を『不良と引きこもりの塾』という表現から、『水平目線を学び合う塾』という表現へ改めていきたいと思います。
もちろん対外的には『非行防止とか引きこもりからの脱却』という世間にわかりやすい目標を掲げておくことは必要かもしれませんが、より「判る方」に対しては、『水平目線を学び合う塾』とか『応霊・応能な発達支援を考える塾』という考え方を出していく方がいいかもしれません。
ちなみに応霊の「霊」の文字に疑問を持たれるといけないので、WHOが言うところの『肉体的、社会的、精神的、そして霊的な健康である』という健康の定義や、
緩和ケアでは必ず学ぶシシリー・ソンダースの『全人的痛みの理解(肉体的、社会的、精神的、そして霊的な痛みを理解する)』とも相通ずる『全人格を指す言葉としての霊』を用いたことを説明する必要はあると思います。いわゆる全身全霊の霊です。
いかがでしょうか?
●気がついたこと。
『水平目線』を持つ方は、その職業や学問の専門性に逃げず、まずは自らの人格で以て相手に向き合おうとする。
専門性は、向き合い、受け止めた後に、原因の究明や具体的な対応策を考えていく際に活かせるものではあるけれど、『まずは受け止めて寄り添う』ときには専門性が邪魔をする場合があるように感じられます。
キリストの強さは『言葉以外には何も持たない』ことにあったことではないかと感じています。
まずは、全身全霊での言葉で受け止める。それが水平目線を目指すものの心得かと感じます。
いかがでしょうか?
2011年
12月
18日
日
子育て
先日、福岡県田川で「ふれ愛義塾」の工藤さんのお話を聞かせてもらいました。
そのお話の中で一番心に残った言葉が「子育ては、種まき」。
私は、子育ての種まきがちゃんとできてるんだろうか?
ちゃんと、芽が生えてきてくれるんだろうか?
雨にも風にも負けない木に育ってくれるんだろうか?
子どもを愛する気持ちには自信があるけど、ちゃんとした種をまいてるのか自信がない。
親として、ちゃんと子どもをみてやることができてるんだろうか?
子どもが、成長して大人になることをちゃんと受け入れて行くことができるのだろうか。。。
子離れできるのかな・・・
子どもの成長を受け入れたいけど、大人になる我が子が不思議で未だに受け入れてあげることができないで
いるのかもしれない。。。
だって、私の「子ども」は「子ども」だから。。。
子どもの成長とともに、私も成長しなくちゃ。。。
正直、子育てが、しんどすぎて自由に生きている「親」に心の中で八つ当たりをしてしまうこともある。
でも、真似はしたくない、できない。
間違いなく、その親の子どもは病んでいくから。
我が子には、堂々と自信を持って生きて欲しいから。
私は、親として子どもに何をしてあげれるのだろう。
2011年
11月
11日
金
思い立ったが吉日!
先日、塾頭、Mr.X、Mr.Brainとメールでやりとりを交わし、その内容からぜひブログへという話になったので、こちらへ掲載します。皆さんもぜひ、議論に入ってくださいませ。
塾頭さま、Mr.Xさま
お世話になります。
日本の住宅の変遷をかじっているときに、ふと思いついたので、忘れないうちに先生にご意見をうかがいたいと思い、メールしております。
現代の環境で、どうやって理想に近い(と個人的に勝手に思っている)戦前、特に大正デモクラシー以前の「イエ」が持っていた子育て機能を取り戻すか・・。と、思いを巡らせていたところ、ふと思ったのは、「自宅での自営業の家庭」(もちろん農家も)が現代にある家庭環境の中でもっとも理想に近いのでは??と思いました。
・両親が常に家にいる
・両親の働く姿を常に見ることができる
・接客本位という従来の「イエ」機能
・結果的にこどもが多くの人が出入りする環境に置かれる
こうして考えると、僕は個人的に非常に恵まれた環境だったと思います。僕の実家は理容店だったので・・。私的な話で恐縮です。しかも、家には「廊下」がなく、戦前主流だった「続き間」で、プライバシーはほとんどなく、全体的に公と私が混然とした状態でした。また、玄関も一つで、店内に2階へ行く階段があり、毎日店を通らなければならないという環境でした。
最近になって、在宅就労が増えておりますが、そうしたことはもしかすると子どもたちにとって好影響を与えうる可能性を持つのではないかと思います。
が、そこに「接客機能」が必要だと思うのですが、それを現代社会の中で現代人がどう受け入れることができるか・・。
とめどないつぶやきでごめんなさい。とにかく思いついたので忘れないうちに自分のためにも思いを文章にして先生たちにご意見を伺おうと思いました。。
Mr.Brain
2011年
10月
20日
木
子育ては「樹育て」、まちづくりは「森づくり」
まず「直根カット」が話題に上りました。
「直根カット」とは、「樹を早く成長させるために、真っすぐ下に伸びる根(直根)を切って、側根だけを残す植樹の方法」です。いわゆる樹の促成栽培術というべきものでしょう。
しかし、20年近く前、『伊勢内宮遷宮のときに使用する檜はすべて国外産になってしまった(国内は直根カット植林で内宮に相応しい反りの出ない材の確保が難しくなったので、直根を残す海外(台湾か中国だったと思います)の木材を使用せざるを得なくなっている)』というような報道が出たように、その促成栽培的植林技術に問題があることも指摘されています。
このことをきっかけに Mr.Brain との「二人ワークショップ」が自然と展開されました。
そこでの内容を以下に列記します。「子育て環境づくりには何が必要か?」の大きなヒントになっているのではないかと思います。
・直根カットは効率的、画一的、工場生産的林業なのだろう。 それは日本の教育にもあてはまるのではないか。
・檜林、杉林ばかりがもてはやされている考え方(教科学習成績だけで子どもの価値を測ってしまう風潮)はやはりおかしいのだろう。教育や子育てが産業に支配されている。産業のための教育や子育ては殖産興業・富国強兵以来まだ終わらないのか?
・原始林や雑木林にも「強さ」や「役割」はあるのではないか? 多くの動物や植物、微生物が檜林、杉林より豊かなのではないのだろうか? 保水力もあるのでは?
・「根を切らないこと(大人の社会の価値観で子どもを育てない、評価しない)」に加えて、幼木が育って根を張っていくための土壌作り(夫婦、家庭、親に代わる人々、「安心して根を張れる居場所」づくり)が大切ではないだろうか。
・一本の樹だけ育てるのではなく、「森(集団、社会)」としても育てて行く視点が必要ではないだろうか。それこそがまちづくり、国づくりであるだろう。
・土作りには「微生物のバランス、それによる樹々と土の有機的な循環(樹はやがて土になり、同時に新しい種に変わる。それを為しているのが微生物)」が必要で、そのためには微生物のバランス(存在のバランスや活動量のバランス)が重要。
・生ゴミ農法(佐世保「大地といのちの会」)によると、土の温度が上がらず発酵ではなく腐敗へと進みそうな時、「食物廃油」を撒くことで土の温度を上げるらしいが、人の樹育て環境において「廃油」に相当するものとは何だろうか?
・そもそも「土の温度が上がらない状態」とは? たとえば龍馬塾の子どもたちにあてはめてみると、「家庭の中の両親の和が保てずに子どもが不安を感じること」に相当するのかもしれない。
・実際、Mr.Brain の幼稚園では、「いままでと様子がちがう」と感じた園児の保護者にはすぐに連絡をとるそうですが、するとほとんどの場合「環境変化」が発見されるらしい。離婚、夫婦喧嘩、家庭内暴力、出産や妊娠、引っ越し、転勤等々。理由はさまざまですが、これらが幼児の不安をかき立てている可能性があるというのです。
・「樹が育つための養分を持ち、適度な温度によって微生物の正常な働きを促せる状態にある土作り・土の管理」、これは佐世保生ゴミ農法からの学びであるが、この生ゴミ農法を一度真剣に学ぶべきである。⇒ ということで、Mr.Brain と Mr.Xは佐世保の武内先生の講義を受けに行くことを決定(もちろん細部までノートを取り、写真も撮る「必死の」受講)。同行希望者は是非申し込んでください!!
・武内先生がおっしゃるように、「微生物の世界・動きは宇宙や人体と同じ」であるならば、その考え方は人の社会にも通用するはず。もしかすると「航海型計画・活動術(別の機会に紹介します)」につづく「土作り、樹育て、森育て計画・活動術」が整理できるかもしれません。
2011年
9月
08日
木
「天使の絵」と「天使の作文」
縁あって、「天使」のような6歳の女の子のことを知りました。
6歳のお誕生日に「世界中が平和になりますように」と祈ってロウソクを吹き消すような女の子だそうです。
私はまだ見ぬこの子のことを「6歳の天使」と呼ぶことにしました。
このブログでみなさんに紹介したいのは、この「6歳の天使」が描いた絵と、力作の作文です。
富士山の上から「雲の宇宙船」に乗り込んでいる子供達(人間だけでなく動物達も)の表情をご覧いただきたいと思います。
「6歳の天使」の人間性の豊かさ(これが本当の知性というのでしょう)を感じます。
龍馬塾のMr.Brainも、「いまの普通の子供達の絵とは違う」と言っています。
どうすればこういう子どもが育つのか、非常に関心があると言っています。
今の子どもたちには程度の差こそあれ、どんな子どもにも「発達障害に通じる特徴(これを障害と呼ぶかどうかは別ですが)」あるように感じますが、私はこの絵からはそれを感じ取ることができません。全く屈託がないように感じるのです。
いつか機会があれば、この「6歳の天使」には会ってみたいと切望していますが、あまり世間に紹介しすぎて、天使に迷惑をかけてしまっては元も子もありません。
もう少しの間、静かに守られて、すくすくと育ってほしいと願っています。
全部平仮名(笑)の力作作文も是非読んでみてください。
最初「世界中のおばあちゃんが眠れる世界が平和な地球だ」という骨子だけを教えてもらっていたときは、どういう内容の文章になるのか、想像もつかなかったのですが、出来上がりを読んだら、ものの見事に「本質を突いた論文」になっているではないですか!
力の強い者が力の弱い者から奪う、これこそがこの文明の愚かさだと思います。
そのことを見事に指摘しています。
では、何故力の強い者が力の弱い者から奪おうとするのでしょうか?
このことは、みなさんに(大人にも、そしてこれから大人になっていく子供達にも)考えていただきたいと思います。
今の地球は、この課題を乗り越えられないレベルの文明にあるのです。
作文:『へいわなちきゅう』
わたしのおばあちゃんは、ひとりでくらしています。「ひとりでさびしいな。」、「よるこわいな。」といいます。
わたしは、「はなれてくらしていても、かぞくはつながっているからだいじょうぶ。さびしくないよ。」と、おばあちゃんにいいました。
でも、よるこわいときはどうしたらいいかな。まいにち、わたしが、とまりにいこうかな。「それはむずかしいね。」と、おかあさんがいっています。
おばあちゃんに、よるどうしてこわいのかきいてみました。
「わるいひとがきても、ひとりだから、たすけをよべない。」ということです。
わたしは、それをきいてびっくりしました。わたしにそんなことがあったらこわいです。
「よのなかがいいひとばっかりだったらあんしんだよね。にほんは、せかいのなかでも、あんぜんなくになんだけどね。」とおかあさんがいってました。
ひがしにほんだいしんさいのとき、がいこくのおともたちが、しんぱいしてでんわをくれたことをおもいだしました。がいこくにもしんせつなひとがいっぱいいるのになとおもいました。
せかいのみんなで、しんせつをおしえっこして、みんながみんなをたいせつにすれば、せかいのどこでもあんしんしてくらせる。
にほんだけではなく、せかいじゅうのおばあちゃんが、あんしんしてよるねむれるちきゅうにしていきたいです。
きっとそれが、へいわなちきゅうなんだとおもいます。
へいわなちきゅうにみんなですみたいです。
2011年
9月
08日
木
家族って何だろう
家族ってなんだろう。
離れて暮らすのも『家族』
そばにいるのも『家族』
そばに居たいのに、そばに置くと壊れてしまうのも『家族』
『家族』なのに守ってやれない。
『家族』なのに喧嘩もできない。
『家族』なのに・・・
『家族』だから見守る。
『家族』だから想う。
『家族』だから分かる。
『家族』だから・・・
明るい未来が来ることを願うことしかできないのも『家族』
『家族』の何気ない会話。
『家族』の会話はなくても、暖かい空気感。
『家族』の絆。
家族ってなんだろう。。。
2011年
7月
05日
火
渾然一体(全ては渾然として一体なはず)
なわばりを主張するのは下等動物だと思う。
魚に然り、鳥類に然り、哺乳類に然り・・。
何かを“分ける”“区別する”“分類する”・・・これらもテリトリーを作る行為の一つだと考える。
もちろん、こうしたことも無意味ではないことは分かっている。整理できるし、明確にできることもある。
しかし、こうした行為は、“感覚で漠然と、でも確かな何かを感じる”行為に遠く及ばない可能性があることを自覚するべきだろう。
科学は分類する、区別することの最たるもの。
そして、科学は若く、まだまだ駆け出しの幼稚な分野であることを知るべき。
そもそも、“分類する”“区別する”科学は、人間には到底及ばない自然を人間に分かるように、原理が説明できるように読み替えてきた(つもりの?)分野で、地球から生まれた、地球の一部である人間が本来感覚で感じ、捉え、確信をもって“分かっていた”事象のごく一部しか解明していないだろう。
科学にも優れた面はある。原理を解明し、それを応用できる可能性を持っている。科学も無意味ではない。が、科学が幼稚で、本来の(昔の)人間が分かっていた範囲のごくわずかしか科学は分かっていないことを自覚しないといけない。
科学が偉いと思うのは大きな勘違いで、たとえば、“三つ子の魂百まで”という一つのことばをとっても、最近になってようやく科学はそれを実証したに過ぎない。
先人たちは、確かな感覚で感じ、確信を持っていたことに違いない。僕たちは、科学がないと確信がもてないまでに感覚が廃れているのかもしれない。
科学を批判したいわけではない。科学が万能だと勘違いせず、僕たちが本来持っている“説明できないが確かな感覚”を信じることも忘れてはいけないと思う。
科学の話はここまでにして、とにかく、テリトリー、なわばり、線引きを主張する事は、進化や発達を止めることにつながると思うわけで。
話を戻して・・。
人種、年齢、性別、考え方・・・すべてのことで“線”を引いた時点で進化が止まり、退化が始まっている可能性があるのではないか。というのはいきすぎでしょうか・・(笑)。
だって、世の中の真理は、“渾然一体”でしょ。
“みんな違って、みんないい”わけで、“全ては宇宙の一部”で、“つながっている”はずです。
話が大きな方向に広がってしまいしたが・・
僕は幼稚園に勤めているので、子育てに視点を置くと、赤ちゃんから高齢者まで、性別、生まれ、人種、考え方、得手不得手等々によって何も隔てることをしないこと。
何にも隔てられず、空間と時間を共有できる場。ここにこそ、子どもたちを真に育む要素があると考えます。
そして、これは、同時に子育て中の保護者の悩みを消し、高齢者の脳を若返らせ・・全ての人間にとって喜ばしい影響を与え得る環境だと考えます。
戦前のどの家庭にもあった“縁側”“井戸端”のやうな・・。