善いことと悪いこと

これは龍馬塾にとって一番大切なテーマのひとつかもしれない。
善いことと悪いことって何だろう?

 規則を破ることを勧めたいわけではない。しかし、意味もわからず規則に縛られ、自分自身を見失い続ける人生を送るよりは、時と場合によっては規則の枠の外側を意識し、内外あわせたその中で自分の進むべき方向を決める、そのくらいの度量は欲しいと思う。規則に縛られるのではなく、規則を活かすこと、自身の糧にできることが大事だと思う。

 もちろん「程度、度合い」というのは重要である。人の生命の大切さを知りたいから一度人を殺めてみるというのは絶対に許されるべき行為ではない。しかし、例えば「煙草」などはどうなのか?龍馬塾に、隠れて喫煙をしているという噂のある中高生がやってきた。あくまでも噂であって彼等が塾内で喫煙しているわけではない。その中高生に向かって、「君たちね、煙草はダメなの!喫煙するならもうここに来てはいけません!」、こう言うのは簡単だ。するとその子達はしばらくは(或いはもう二度と)ここには顔を出さないだろう、それだけである。そしてここを離れれば離れるほど、彼等に近づくのは「次なる段階の禁忌への誘惑の手」、例えばクスリ、例えば男女。

 もったいないおばさんのたまり場を運営するボランティアの一部から「隠れて喫煙しているかもしれないような不良少年たちはここに入れてはいけない」という声が出始めたと聞いて、一人の胆の座った教育関係者がこう言った。
「あのね、あと5年してごらんなさい。その子等の喫煙は違法じゃなくなるのです。でもね、いまその子等をここから追いやって、クスリの魔の手に近づけたらどうなりますか? クスリは今だけじゃなく5年後も10年後も犯罪になるんです。5年後煙草を吸う青年が何人か居たところで、団地の高齢者たちは不安でしょうか?でも5年後クスリの常習者が何人か増えたらみんな不安になるんじゃないですか?今、彼等はまだ危ない状況じゃない。いい子たちじゃないですか!何故なら、ここの大人達に交じって会食できたり、言葉を交わしたりできるでしょう? 本当に危なくなるとこんなところへ寄り付かなくなりますよ」。
人間社会で真に生きる上では、清濁合わせ持った環境でこそ本当の教育が出来るのだと思う。

 誤解しないでほしい。みんなが龍馬塾は喫煙を推奨しているわけではない。しかし、世の中の規則を守っていないからという理由だけで龍馬塾からはじき出すこと、それが進むべき道だとは思わないだけである。
 規則は異質な存在をはじき出すことを目的にあるのではなく、個々人の人権・生活・成長を守り促すことに本来目的を持つべきである。人をはじき出すことを目的にした規則は暴力にもなりかねない。その落とし穴に陥ることの方がよほど怖いのではなかろうか、そのことを踏まえた善悪の目を持っていきたい。

 自分の善悪の枠におさまらないからといって、その存在を枠の外へ追い出したところで、その存在が消えてなくなるわけではないのだ。島流し・流刑が有効であった時代ならそういう考え方の対処もあり得ただろう。しかし今の時代、その考え方はあまりに稚拙で世の中を知らなさすぎる。例えば今の中国はどうなるのか?中国にどう対処するのか?国際的な法規や秩序に従わないからと、日本は中国をはじき出してそれでどうなるのだろう?

 繰り返すが中国の無法を許容すべきというわけではない。相手が無法者ならそれに対してどう向き合うのか、そのスタンスも決められないのに「~してはいけません!先生にいいつけますよ」式な思考ではもうどうしようもないということを言いたいだけだ。そんな幼稚で安易なやり取りが通用する世界ではなくなっている、その現実を大人達が見てほしい。
 また、規則による善悪は時代や地域で全く異なる面を持つことも知っておきたい。ある時代、ある国では、正しい行いが、別の所ではその逆にもなるのだ。

 中高生の喫煙は害が大きいだろう。でもその害の多くは自身が被るべき害だろう。龍馬塾では彼等に言う、「ここでは吸わせない。もちろん外でも吸ってほしくない。それは君たちの身体に良くないから」と。

 15歳であろうが、18歳であろうが、彼等には自由意志がある。法的な意志能力が完全ではないとされるだろうが、法律は人間を便宜的にカテゴライズしただけだ。僕らも彼等も同じ人間で、人間としての意志能力はある。
 「身体に良くないこと」をあえてしてみる、それを自由意志で貫くには、リスクを自分自身で背負う覚悟が要るんだ、それだけは口を酸っぱくして伝えたい。

(文責:Mr.X 、文章添削:by塾頭)